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鶴丸 英樹のブログ記事
わたしの平成記③(平成3年)
「わたしの平成記」
3回目は平成3年(1991年)です。
大学で気象・気候学を専攻した私。
長野県菅平にある大学の施設に泊まっての野外実験では雪の中で観測を学びました
真夜中に降雪量や表面温度の観測をするときは凍傷になりそうでしたがその前後にスキーを楽しんだのはいい思い出です
また、友人の卒論(東京の環状8号線に沿って現れる雲「環八雲」がテーマ)の手伝いで東京の砧公園に出かけ観測もしました。
気球(風船)に詰めるヘリウムガスのボンベと2ショット。
ちなみに私の卒論は
「エルニーニョとラニーニャの年の日本付近での台風の発生・進路の違い」
といった内容の論文でした。
研究の合間に友達のギターを借りて悪ふざけ
当時パソコンにもまったく興味がなく大学の大型コンピューターを使った研究は苦労しました
3週間、教育実習で茨城県の中学校に赴きました
初日、その学校の校長が実習生を前に
「どんなことがあっても決して体罰をしないように」
と注意をされたのを記憶しています。
いろいろと苦労はしましたが、卒業時にはなんとか高校・中学の「理科」教員免許を取得することができました
さて、「僕は死にません!」というセリフが話題となったこの年
“バブルがはじけた”と言われていますがまだまだ就職活動は“超売り手市場”。
企業からはダイレクトメールが段ボール箱何箱分か送られ来て大学のOBからは「話だけでも聞いてほしい」と連絡があり、ご馳走にもなりました
福岡の大学に通う高校の友人の中には2日間で東京の企業を4社くらい受けてもらった3社分の交通費を浮かすような強者もいました。
私は就職先として興味を持っていたテレビ局それも地元のサガテレビから幸いにも内定をもらうことができました。
ゼミの先生には「教員採用試験を受けてきます」と言って帰省していたのに「テレビ局に決まりました」と伝える時には
少々ばつが悪かったのですが・・・。
戦後の日本経済がピークを過ぎテレビマンになることが決まったこの年は私の人生の大きな分岐点でした。
【平成3年のおもな出来事】
■雲仙普賢岳で大火砕流
■ドラマ「東京ラブストーリー」「101回目のプロポーズ」が大ヒット
■宮沢りえの写真集『Santa Fe』が話題に
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