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2019.11.06

「炭鉱の町」大町町の歴史を巡る!

「炭鉱の町」として栄えた大町町。今回はその当時の様子や今後の大町町について、地元の方々にお聞きしました。

炭鉱の町・大町町

案内していただいたのは、大町町教育委員会事務局・文化財専門員の岩永憲二郎さんです。

まず訪れたのは「おおまち情報プラザ」。そこには1918年に造られたSLが展示されています。

佐賀県では幕末から石炭の採掘が始まり、明治に入ると炭鉱が開かれました。その中でも「佐賀県最大級の炭鉱」となった大町町で、1909年に創業、1921年に株式会社に改められたのが杵島炭鉱です。大町町では町民の約6割が炭鉱関連の人と言われていました。

石炭は当時、船や鉄道の燃料、化学工業の原料など重要な資源でした。

このSLは筑豊地方で実際に石炭輸送に使われたもので、貨物車両いっぱいに積んで運んでいたそうです。


福母八幡宮の参道にある鳥居。こちらは炭鉱で栄えた一族・高取家から寄付されたものです。

高取家は高取王国と呼ばれる炭鉱王で「ほかの人の土地を一歩も踏まずに隣町まで行けた」という成功者ならではのエピソードも!鳥居の他に小学校の校舎なども寄付していたそうです。


続いて向かったのは、大町町公民館の屋上。

屋根の屋上がなんとなく同じ並びで続いているのが見えます。これが炭鉱住宅です。

当時は限られた土地に1人でも多く住めるように住宅が密集していました。

大町町の人口は、昭和16年に2万4000人いたと言われています。
昭和33年に小学校の児童数は4000人で、1学年に700人、学級数は15~16クラス、そして先生は100人!おそらく全国1位の生徒数です。

ちなみに生徒数が多すぎて、授業は昼・夜の2部制、運動会は春と秋の2回に分けておこなっていたそうです。

大町町に人が集まったのは、炭鉱マンの給料が現在の大卒新入社員の2倍で、炭鉱マンと結婚すると一生安泰だと言われていた為でした。


さらに、当時の話を聞くために80年前から商店街で営業をされている池田写真館へ。

大町町がにぎわっていた頃の写真を見せて頂きました。

隣町からお嫁にきて50年と言う写真館の奥様・百合子さん。当時は夜も明かりが消えることが無く、不夜城の様にキラキラとしていて「あんな大都会に」と大町町に憧れを抱いていたそうです。
当時、大忙しだったそうで夜も遅くまでプリント作業や写真補正の仕事に追われていたそうです。

大町町で今も変わらない良いところをお伺いすると、百合子さんは「人」と仰っていました。「大町の人は優しい」とよく言われるそうです。

炭鉱文化を土台にしていろんな企業を誘致してきた大町町。今からは「人」だと岩永さんは言います。大町には面白い人がたくさんいる。そこを魅力にして行こうという動きが始まっているそうで、「炭鉱が栄えた町という思い出にすがるだけではなく、もう未来に進んでいる」と仰っていました。
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