アナウンサー
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鶴丸 英樹のブログ記事
わたしの平成記㉓(平成23年)
平成23年・2011年
3月11日に「東日本大震災」が発生。
報道にかかわる者としても大きな衝撃を受けた未曾有の大災害でした。
私たちフジテレビ系列のニュースネットワーク「FNN」ではこの震災の経験を時の世代に伝えるために『3.11の記録』という記録集を1年後に制作しました。
私もFNN取材団の1人としてフジテレビ本社を拠点に取材などにあたりました。
今月で震災から8年。
私自身、少しずつ大震災の記憶が薄れているのを感じます。
私にとっての大震災の記憶・教訓を忘れないために、今回のブログには『3.11の記録』に寄せた当時の私の手記の一部を掲載させていただきます。
以下抜粋
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初めは小さく。やがて左右に大きく揺れ始めたシャンデリア。
2011年3月11日。東京お台場のホテルで開かれていた系列のアナウンス責任者の会議中に震災に遭遇。生まれて初めて真剣にもぐりこんだ机の下で「建物が崩れてこのまま死ぬかもしれない」という恐怖が頭をよぎった。携帯サイトをチェックすると宮城で震度7との情報。揺れがおさまると、FNNの一員として少しでも手伝いができればと、そのままフジテレビのFNN推進部に直行した。特番に入り、騒然とする報道センターで、各局へのヘリコプター出動依頼の電話などを担当した。当初、被害の全体像がつかめない中、大変な事態になっていることだけはわかっていたが、その時点では、かつて自分がFNN取材団として現地取材を経験した阪神淡路大震災を超える規模の災害になろうとは思ってもいなかった。
夕方、同じく別の会議から推進部応援に入っていた当時の上司と一緒に、一刻も早く佐賀に戻り震災への対応をとフジテレビを後にした。2時間ほどかかってやっとタクシーを拾い大渋滞の中、羽田空港へ。携帯電話のバッテリーの残量を気にしつつ、ワンセグを見ていると東京タワーの先端が曲がってしまったという情報が。また自分の携帯電話に緊急地震速報のコールがあったのも初めての経験だった。余震に不安を覚えつつ、空港のロビーに新聞紙を敷いて一夜を明かし、翌日の早朝便でなんとか佐賀に帰りつくことができた。
3月12日。福島第一原発で水素爆発。サガテレビの報道制作部内のモニターで爆発の映像を見たときには我が目を疑った。「最悪の事態が起きてしまった」と感じた。
そして3月14日、私はFNNの内勤応援として再びフジテレビに入り、サガテレビで原発担当をしているということもあって、16日から東京電力本店の取材を受け持つことになった。フジテレビ記者のサポートが主な役割ではあったが、原発事故に関わる記者会見の取材は貴重な体験だった。
今から考えれば、すでに福島第一原発の1~3号機ではメルトダウンが起こり、燃料の大部分が溶けてしまっていたということだが、当時は電力の供給がなく、正確かどうかさえわからない圧力計や水位計のデータの発表などが行われていた。
記者からの質問に東電側は「わからない」を連発。東電内にも当然混乱はあったと思うが、それにしても情報開示の遅さには辟易した。記者側から見れば「深刻な事態を隠そうとしているのではないか」という疑心暗鬼が生まれる。要領を得ない説明と、先が見えないことへの苛立ちもあり、ピリピリとした雰囲気だった。
また原発事故の情報については東京電力本店のほかに、東電の福島事務所、原子力安全・保安院、そして枝野官房長官から情報が発表され、その内容が食い違うことも多く、連携がうまくいっていないという印象だった。
科学の粋を集めたはずの原子力発電所。日本を代表する大企業である電力会社。それを監督する経産省(保安院)。そして多くの人が信じてきた原子力発電の「安全神話」。それがこんなにももろく、危ういものだったとは・・・。それが、私が東電の記者会見会場でずっと感じていたことだった。また自分自身も「日本の原発でチェルノブイリのような大きな事故はないだろう」という思いがあったことも事実だ。
福島第一原発の事故は数十年、あるいは数百年の単位で影響が続くものである。
我々、報道に携わる者は、それをきちんと記録していくとともに、国民の選択の材料となる情報を伝えていくという大きな使命を果たさなければならない。
2012年5月
【平成23年のおもな出来事】
■地上デジタル放送へ完全移行
■サッカー女子W杯でなでしこJAPANが優勝
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