佐賀のニュース
【戦争の記憶】 強制労働と飢えの苦しみ 4年間のシベリア抑留生活
2022/08/11 (木) 15:30
太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。
≪2020年8月14日放送≫
(年齢は放送当時)
伊万里市の95歳の男性。戦後、日本に帰れると喜んだのもつかの間、男性を待っていたのはマイナス35度の極寒の地、シベリアでの抑留生活でした。
「終戦からが本当の戦争。良い人生じゃない」
伊万里市南波多町に住む松高九州男さん95歳。戦後、約4年にわたり極寒の地シベリアに抑留されました。
「寒かですよ。マイナス35度まで。途中で病気して死んだら仕方ないと思っていた」
1924年大正13年に現在の伊万里市南波多町に生まれた松高さん。当時の男性は20歳になると徴兵検査を受けて兵士になるのが義務でしたが、兵力が乏しくなっていたため19歳で軍に召集されました。
「もう来たか…行かないといけないねと。父が『用心して』と」
松高さんは満州、今の中国東北部に渡、2年にわたる軍隊生活を送ることになります。
「朝6時にラッパが鳴る。自動車隊は自動車乗りの稽古。輓馬は馬車引いて障害物を飛び越える稽古だった」
その後、荷物や食糧などを馬車に積んで前線に輸送する輜重隊(しちょうたい)の一員となった松高さん。最も苦しんだのは飢えでした。
Q何食べていた?
「えんばく。牛のエサ。おいしくない。腹が減ってたまらなかった」
その後、戦局は悪化の一途をたどり、日本の敗戦が濃厚となっていた1945年8月9日、ソ連、現在のロシアがお互いに攻め合わない不可侵などを定めた条約を破り国境を越え侵攻。戦う力が残っていなかった日本は、ソ連を前に成す術もありませんでした。
【昭和天皇】
「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…」
昭和20年1945年8月15日、日本はアメリカをはじめとした連合国に降伏しました。一方、松高さんたちはソ連軍の捕虜となります。
「ソ連軍が汽車に乗れと言うから乗らないといけない。こっちの発言力は全然なかった。みんな行先は全然分からん」
連行される松高さんたちがソ連軍から繰り返し聞かされた言葉、それは…。
『ヤポンスキー東京ダモイ』
”日本人は、東京に帰る”という意味です。
「『ヤポンスキー東京ダモイ(東京に帰れる)』そればっかり。『よかった、日本に帰れる』と思った」
しかし、異変を感じたのは汽車に乗り込んでからのこと。
「かしこい人は途中で『これはおかしい』『だまされた』と」行き先も分からぬまま汽車に揺られることおよそ2週間。到着したのは日本ではなく、極寒のシベリアでした。
「寒かですよ。マイナス35度まで。暖房はあるもんですか。お互いの顔を見て、眉が真っ白。『眉が凍っとるぞ』と教え合っていた」
収容所に入れられ木の伐採や鉄道建設などをする強制労働が4年間続きました。
「3メートルに切って割って、120キロ先まで鉄道建設した。夜中に不定期に起こされて文句も何も言えないし通用しない。お互い黙ってする以外なかった。休んだことはほとんどない」
(Qシベリアでの食料は?)
「大豆かす、大豆をつぶしたやつ。あれで満腹したこと、腹いっぱい食べたことはない」
配給された食料では全く足りず仲間たちは次々と栄養失調になり、松高さんは死んだ仲間の遺体を埋葬しました。
「仲間3人ぐらい。山の上に埋めに行った。火焚いても溶けない。土が凍っているから。パラパラと赤泥の火を乗せて、あとは雪をかぶせて」
そんな長い抑留生活を支えたのは”自身の精神力”でした。
「帰らないことには…1人息子だから」厚生労働省によりますと、シベリアでの抑留者は約57万5千人とされ、このうち死亡した人は5万5千人ほどと言われていますが、戦後75年経った今も正確には分かっていません。4年が経ち、ようやく日本に戻ってきた松高さん。
「京都の舞鶴の甲板の上に上がった時は、ほっとした」
Q帰還後の家族の反応は?
「ご苦労さんとかいろいろ。栄養失調でやせ衰えとったから、みんな心配していた」
戦後は農家としての生活を送った松高さん。自身の経験を時々ひ孫たちに聞かせています。
【ひ孫・松高陽香さん(中3)】
「何回も聞いているので聞き飽きたと思うこともあるけど、話せる人が減ってきているということを知ったら私たちに話してくれるのは貴重なので、今のうちにたくさん聞いて学ぼうと思った」
【ひ孫・松高勇真さん(中1)】
「戦争や被爆された方の思いなどは受け継いでいかないといけないとだんだん感じてきた。戦争の記憶を途絶えさせてはならない」
松高さんは、命が続く限り語り継ぎたいと話します。
「戦争はだめということを言いたい。絶対いかん。今でも憲法改正と安倍総理が言っている。殺し合いで何のためにもならない。頼まれればどこにでも行く」
終
≪2020年8月14日放送≫
(年齢は放送当時)
伊万里市の95歳の男性。戦後、日本に帰れると喜んだのもつかの間、男性を待っていたのはマイナス35度の極寒の地、シベリアでの抑留生活でした。
「終戦からが本当の戦争。良い人生じゃない」
伊万里市南波多町に住む松高九州男さん95歳。戦後、約4年にわたり極寒の地シベリアに抑留されました。
「寒かですよ。マイナス35度まで。途中で病気して死んだら仕方ないと思っていた」
1924年大正13年に現在の伊万里市南波多町に生まれた松高さん。当時の男性は20歳になると徴兵検査を受けて兵士になるのが義務でしたが、兵力が乏しくなっていたため19歳で軍に召集されました。
「もう来たか…行かないといけないねと。父が『用心して』と」
松高さんは満州、今の中国東北部に渡、2年にわたる軍隊生活を送ることになります。
「朝6時にラッパが鳴る。自動車隊は自動車乗りの稽古。輓馬は馬車引いて障害物を飛び越える稽古だった」
その後、荷物や食糧などを馬車に積んで前線に輸送する輜重隊(しちょうたい)の一員となった松高さん。最も苦しんだのは飢えでした。
Q何食べていた?
「えんばく。牛のエサ。おいしくない。腹が減ってたまらなかった」
その後、戦局は悪化の一途をたどり、日本の敗戦が濃厚となっていた1945年8月9日、ソ連、現在のロシアがお互いに攻め合わない不可侵などを定めた条約を破り国境を越え侵攻。戦う力が残っていなかった日本は、ソ連を前に成す術もありませんでした。
【昭和天皇】
「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…」
昭和20年1945年8月15日、日本はアメリカをはじめとした連合国に降伏しました。一方、松高さんたちはソ連軍の捕虜となります。
「ソ連軍が汽車に乗れと言うから乗らないといけない。こっちの発言力は全然なかった。みんな行先は全然分からん」
連行される松高さんたちがソ連軍から繰り返し聞かされた言葉、それは…。
『ヤポンスキー東京ダモイ』
”日本人は、東京に帰る”という意味です。
「『ヤポンスキー東京ダモイ(東京に帰れる)』そればっかり。『よかった、日本に帰れる』と思った」
しかし、異変を感じたのは汽車に乗り込んでからのこと。
「かしこい人は途中で『これはおかしい』『だまされた』と」行き先も分からぬまま汽車に揺られることおよそ2週間。到着したのは日本ではなく、極寒のシベリアでした。
「寒かですよ。マイナス35度まで。暖房はあるもんですか。お互いの顔を見て、眉が真っ白。『眉が凍っとるぞ』と教え合っていた」
収容所に入れられ木の伐採や鉄道建設などをする強制労働が4年間続きました。
「3メートルに切って割って、120キロ先まで鉄道建設した。夜中に不定期に起こされて文句も何も言えないし通用しない。お互い黙ってする以外なかった。休んだことはほとんどない」
(Qシベリアでの食料は?)
「大豆かす、大豆をつぶしたやつ。あれで満腹したこと、腹いっぱい食べたことはない」
配給された食料では全く足りず仲間たちは次々と栄養失調になり、松高さんは死んだ仲間の遺体を埋葬しました。
「仲間3人ぐらい。山の上に埋めに行った。火焚いても溶けない。土が凍っているから。パラパラと赤泥の火を乗せて、あとは雪をかぶせて」
そんな長い抑留生活を支えたのは”自身の精神力”でした。
「帰らないことには…1人息子だから」厚生労働省によりますと、シベリアでの抑留者は約57万5千人とされ、このうち死亡した人は5万5千人ほどと言われていますが、戦後75年経った今も正確には分かっていません。4年が経ち、ようやく日本に戻ってきた松高さん。
「京都の舞鶴の甲板の上に上がった時は、ほっとした」
Q帰還後の家族の反応は?
「ご苦労さんとかいろいろ。栄養失調でやせ衰えとったから、みんな心配していた」
戦後は農家としての生活を送った松高さん。自身の経験を時々ひ孫たちに聞かせています。
【ひ孫・松高陽香さん(中3)】
「何回も聞いているので聞き飽きたと思うこともあるけど、話せる人が減ってきているということを知ったら私たちに話してくれるのは貴重なので、今のうちにたくさん聞いて学ぼうと思った」
【ひ孫・松高勇真さん(中1)】
「戦争や被爆された方の思いなどは受け継いでいかないといけないとだんだん感じてきた。戦争の記憶を途絶えさせてはならない」
松高さんは、命が続く限り語り継ぎたいと話します。
「戦争はだめということを言いたい。絶対いかん。今でも憲法改正と安倍総理が言っている。殺し合いで何のためにもならない。頼まれればどこにでも行く」
終
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