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【戦争の記憶】「原爆で友人を殺された」 軍需工場へ学徒動員

2022/08/16 (火) 17:32

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太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。

≪2019年8月7日放送≫
(年齢は放送当時)

長崎に投下された原子爆弾で亡くなった同級生のため、毎年慰霊祭に出席する男性の思い。

毎年、8月9日に佐賀商業高校で開かれる原爆慰霊祭。この慰霊祭に毎年出席する男性がいます。斎藤実さん90歳。佐賀商業に在学中、学徒動員で長崎の軍需工場で働き、原爆で同級生を亡くしました。
斉藤さんは1929年に当時日本の支配下にあった朝鮮半島に生まれ、小学1年生の時に佐賀市に移り住みました。
斉藤さんが佐賀商業に入学したのは1942年4月。日本と欧米列強との全面対決となった太平洋戦争がはじまって5カ月ほどたったころでした。

「佐賀商業に入って、だんだん戦況が厳しくなるにしたがって、勤労奉仕だとか学徒動員というのがありまして昭和20年の2月長崎の三菱兵器製作所大橋工場というところに動員掛けられて行ったわけですね」

当時、学生は、勉強よりも軍需工場などで兵器や物資などを生産することが優先されていました。物量に勝る連合国に押され戦局が悪化した昭和20年1945年、学徒動員で長崎の工場には、約60人の佐賀商業の生徒が働いていました。その年の8月9日。アメリカ軍は長崎に原爆を投下。学徒動員されていた佐賀商業の生徒5人が亡くなりました。

「爆心地から約2キロぐらいの距離ですよ。木造の宿舎があったんですけど、つぶれて、爆風で」

斎藤さんはこの時病気のため、佐賀に帰っていて、被爆をまぬがれました。

「誰がどこで被爆したか知りたかった。ところがその記録がはっきりしない。だからそういうのが分かったのは、3、4か月してからじゃないですかね。正確にみんなわかったのはその時ですよ。私が親しかった同級生も亡くなったと。いやね、残念でした。そのころになると、本当に日本が無謀な戦争をしたとわかってきましたからね」

亡くなった同級生と生き残った自分。何かをしなければならないという思いがこみ上げました。

「自分ではね亡くなった人のためにも何かやっぱりやらなくちゃいかんと最たるものは慰霊碑をつくろうと、それしかないんじゃないかなと思いました」

斎藤さんやほかの同級生らが奔走し、1976年の8月9日、佐賀商業に慰霊碑が建てられ、この日から慰霊祭がはじまりました。

「慰霊碑が出来上がったときにはね、嬉しかったですね。自分が生き残った責任をねいくらか果たせたなと思いました」

「ここに来るとね、みんな笑っているんですよ。『よく来たな』と言ってくれる。そんな気がするんですよ」
「勉強放棄させられたのも、学徒動員でひどいめにあったのも、おまけに原爆で友人を殺されたのも戦争です。だから原爆慰霊祭を通して、平和のありがたさをね、若い人にも知って欲しい」

佐賀商業の原爆慰霊碑。校庭に佇む石碑は、今も生徒たちを見守り、時代を超えて平和を訴え続けています。

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