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終戦で引き揚げ 命がけで帰国 不自由なく子どもを育てるため唯一持ち帰ったのは「ミシン」【佐賀県】
2023/08/14 (月) 18:40
シリーズでお伝えしている終戦企画。今回は、5歳のときに朝鮮半島から日本へ引き揚げた玄海町の女性です。財産を失い命がけで帰国する中、家族が唯一持ち帰ったのは不自由なく子どもを育てるための「ミシン」でした。
玄海町の画家・藤井節さん83歳。独特のタッチで描いているのは、黒いミシンです。
【藤井節さん(83)】
「私が5歳の時に、戦争は終わりましたので戦争の時の思いっていうのを、小さい子どもたちにそれを伝えたいというのがあったんですよね。だから(ミシンを)描いたり、絵本にしたり」
藤井さんは幼いころ、当時、日本が事実上支配していた朝鮮半島で育ちました。
【藤井節さん(83)】
「飛行機がそういうのが飛んでいたりとか。夜の怖い感じとか何となく、空気が不穏な感じを感じ取ってたんですよね」
日本人の両親と兄弟6人の8人家族。警察官だった父は戦地へ向かいました。
【藤井節さん(83)】
「もうナンキンムシとかね、シラミとか色々な虫がカラダにくっついている、そういうところにお父さんはいるのよっていう話を(母が)していました」
戦前から、多くの日本人が朝鮮半島や中国東北部の満州、台湾などで暮らしていました。しかし、戦争に負けたため約660万人が、全ての財産を手放し命がけで帰国しました。
そんな中、引き揚げの際に藤井さん一家が唯一持ち帰ったのがこの「ミシン」でした。
【藤井節さん(83)】
「日本に帰っても物が無い、自分で何でも作らないといけない。子ども6人育てあげるのにはミシンが絶対必要だということで、もう家具類とか何もかも置いてですね(母が)ミシンだけ持ってきた」
港では、たくさんの日本人が引き揚げ船の順番を待っていました。
【藤井節さん(83)】
「(韓国の)プサンの港にいるところは凄く強烈に覚えています。多分興安丸という引揚船だったと思うんですよ。とにかく人ごみともう臭い匂いとかですねそんなのは覚えているんですけど」
一家は無事に日本に帰国。十分な食べ物もなく苦しい生活でしたが、母が持ち帰ったミシンを使い様々な物を作ってくれたおかげで、藤井さんは学生時代ほとんど不自由しなかったといいます。
【藤井節さん(83)】
「子どもはね、財産だから十分に教育を受けさせたい。朝鮮からミシンを担いで持ってきたということも、母は先見の明がある人だったなあってつくづく思います」
【藤井節さん(83)】
「母は魔法の手のようにミシンからですね、洋服やらランドセルやら靴下やらリュックサックやらですね本当に必要な、子どもたちに必要なものは全部作ってくれていました」
60歳で画家となった藤井さん。自分の体験を多くの人に伝えるため、20年以上、ミシンの絵を描き続けてきました。
この絵は、ロシアのウクライナ侵攻の様子を描いています。女性が抱えるミシンの上には、楽しく踊る人々。一方、すぐ近くでは空襲で燃え盛る炎の中、逃げる人たちの姿が対照的に描かれています。
【藤井節さん(83)】
「本当に胸が締め付けられるような。自分の5歳の時の(引き揚げ)の体験と重ね合わせて絵を描いてみました」
この日、藤井さんはずっと家に残しているミシンを約60年ぶりに動かしてみました。
【藤井節さん(83)】
「こうやって動かしていましたもんね。入らない、あ入った。カチャ、カチャ。この音が優しい音に聞こえるんですよね。母を思い出します。すごい。蘇ったみたい。使えるよ」
藤井さんのミシンの絵は、玄海町の町民会館にも飾られています。
【藤井節さん(83)】
「(朝鮮半島から)引き揚げてくるときに/トランクを開けたらびっくり箱のようにミシンが出てきて」
戦争や引き揚げの記憶を、ミシンを通して伝えています。
【玄海教育委員会 松尾憲作主査】
「子どもたちもですねたくさん利用致しますので、たくさんの方の目にですね。触れてもらいたいということでここに設置をいたしました」
83歳となった藤井さん。これまでに描いたミシンの絵は約20枚にのぼります。
【藤井節さん(83)】
「これはもう最後かなミシンは。そういう思いで描いてます」
藤井さんはいま制作中の作品で画家の活動を終え、今後は戦争や引き揚げの体験を絵本にするということです。
玄海町の画家・藤井節さん83歳。独特のタッチで描いているのは、黒いミシンです。
【藤井節さん(83)】
「私が5歳の時に、戦争は終わりましたので戦争の時の思いっていうのを、小さい子どもたちにそれを伝えたいというのがあったんですよね。だから(ミシンを)描いたり、絵本にしたり」
藤井さんは幼いころ、当時、日本が事実上支配していた朝鮮半島で育ちました。
【藤井節さん(83)】
「飛行機がそういうのが飛んでいたりとか。夜の怖い感じとか何となく、空気が不穏な感じを感じ取ってたんですよね」
日本人の両親と兄弟6人の8人家族。警察官だった父は戦地へ向かいました。
【藤井節さん(83)】
「もうナンキンムシとかね、シラミとか色々な虫がカラダにくっついている、そういうところにお父さんはいるのよっていう話を(母が)していました」
戦前から、多くの日本人が朝鮮半島や中国東北部の満州、台湾などで暮らしていました。しかし、戦争に負けたため約660万人が、全ての財産を手放し命がけで帰国しました。
そんな中、引き揚げの際に藤井さん一家が唯一持ち帰ったのがこの「ミシン」でした。
【藤井節さん(83)】
「日本に帰っても物が無い、自分で何でも作らないといけない。子ども6人育てあげるのにはミシンが絶対必要だということで、もう家具類とか何もかも置いてですね(母が)ミシンだけ持ってきた」
港では、たくさんの日本人が引き揚げ船の順番を待っていました。
【藤井節さん(83)】
「(韓国の)プサンの港にいるところは凄く強烈に覚えています。多分興安丸という引揚船だったと思うんですよ。とにかく人ごみともう臭い匂いとかですねそんなのは覚えているんですけど」
一家は無事に日本に帰国。十分な食べ物もなく苦しい生活でしたが、母が持ち帰ったミシンを使い様々な物を作ってくれたおかげで、藤井さんは学生時代ほとんど不自由しなかったといいます。
【藤井節さん(83)】
「子どもはね、財産だから十分に教育を受けさせたい。朝鮮からミシンを担いで持ってきたということも、母は先見の明がある人だったなあってつくづく思います」
【藤井節さん(83)】
「母は魔法の手のようにミシンからですね、洋服やらランドセルやら靴下やらリュックサックやらですね本当に必要な、子どもたちに必要なものは全部作ってくれていました」
60歳で画家となった藤井さん。自分の体験を多くの人に伝えるため、20年以上、ミシンの絵を描き続けてきました。
この絵は、ロシアのウクライナ侵攻の様子を描いています。女性が抱えるミシンの上には、楽しく踊る人々。一方、すぐ近くでは空襲で燃え盛る炎の中、逃げる人たちの姿が対照的に描かれています。
【藤井節さん(83)】
「本当に胸が締め付けられるような。自分の5歳の時の(引き揚げ)の体験と重ね合わせて絵を描いてみました」
この日、藤井さんはずっと家に残しているミシンを約60年ぶりに動かしてみました。
【藤井節さん(83)】
「こうやって動かしていましたもんね。入らない、あ入った。カチャ、カチャ。この音が優しい音に聞こえるんですよね。母を思い出します。すごい。蘇ったみたい。使えるよ」
藤井さんのミシンの絵は、玄海町の町民会館にも飾られています。
【藤井節さん(83)】
「(朝鮮半島から)引き揚げてくるときに/トランクを開けたらびっくり箱のようにミシンが出てきて」
戦争や引き揚げの記憶を、ミシンを通して伝えています。
【玄海教育委員会 松尾憲作主査】
「子どもたちもですねたくさん利用致しますので、たくさんの方の目にですね。触れてもらいたいということでここに設置をいたしました」
83歳となった藤井さん。これまでに描いたミシンの絵は約20枚にのぼります。
【藤井節さん(83)】
「これはもう最後かなミシンは。そういう思いで描いてます」
藤井さんはいま制作中の作品で画家の活動を終え、今後は戦争や引き揚げの体験を絵本にするということです。
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