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「勝てる感じはなかった」両親には告げず南方戦線へ 100歳男性が伝える壮絶な戦争体験【佐賀県武雄市】
2022/08/15 (月) 19:05
太平洋戦争終結から2022年で77年。
戦争の記憶を次の世代に語り継ぐため、体験者の話をシリーズで放送します。
8月で100歳を迎えた武雄市の男性。歳を重ねるごとに記憶も薄れるなか、南方へ出征した経験を1冊の本が伝えています。
「この戦いは人生の貴重な体験であったが、生きて帰ったからこそこんなことが言える」
「四年間の中には死線を越えてきたことも何度かあった」
【松尾敏武さん】
「無事に帰れたというのが不思議なくらいですね。せっかく戦争に行ったんだから、何か残さないかんなあという気持ちがあったから」
武雄市武内町で暮らす松尾敏武さんです。8月、ちょうど100歳になりました。
【松尾敏武さん】
「卒業前でしたけど、どうせ男は戦争に関係せな生きる道はないと自分で自覚してですね」
いまから79年前の1943年昭和18年9月、当時、小学校の教員を養成する佐賀県師範学校の学生だった松尾さんのもとに海軍への召集命令が届きます。
太平洋戦争の終盤、戦局の悪化などによる兵力不足を補うため日本は、それまで兵役を猶予してきた在学中の学生にも動員をかけます。いわゆる“学徒出陣”です。
松尾さんにとってはあと1カ月足らずで卒業という時期でした。
【松尾敏武さん】
「行きたくないっていう気持ちはもう、どうせ行かないかんという、もう観念してましたから、そういうことはあんまり考えなかったですね」
松尾さんがまず向かったのは、千葉県にあった館山海軍砲術学校。
ここでの訓練はのちの人生に思わぬ影響がありました。
【松尾敏武さん】
「日本の使う大砲とか機関銃とか、そういうのの使い方を…」
いまはもうほとんど耳が聞こえない松尾さん。高齢のほかにも理由があります。
【松尾敏武さん】
「耳の聞こえが悪いからというので、特別に検査を受けたんですけど、”あんたは大砲屋やったから、もうこれ以上治りませんよ”と言われましてね」
約9カ月間の訓練も終わり、松尾さんはすでに日本軍が劣勢に立たされていた南方へ出征することに。
一方、誰よりも心配していた両親に行き先は伝えませんでした。
【松尾敏武さん】
「あんなへんぴなところに行くと心配するだろうと思って」
これは戦地へ行く途中に寄った台湾での写真、武雄にいる両親に送りました。
【松尾敏武さん】
「私が死んだ場合に困るやろうなと思って、そこで写真を撮りました」
こうして、インドネシア東部にあるケイ島、そしてアンボン島に進出した松尾さん。しかし、当時はもう負け戦が濃厚だったといいます。
【松尾敏武さん】
「物資弾薬も思った通りに送ってくれないし。だから、できるだけ”ここが大事なところだ”というところだけしか弾は撃たないですよね。そのころはそういうふうだから、勝てるという感じは全然なかったですね」
待っていたのは毎日のように空襲を受け続ける日々。
地上から撃っても届かない高度で飛んでくるアメリカ軍になす術はなく、1度の攻撃で20人近くが戦死したこともありました。
【松尾敏武さん】
「アメリカも、どの高さに行けば絶対大丈夫というのが分かっているわけでしょ。急に、低く飛んできて爆弾を上からバババーンと落として、サーっと上に上がっていくわけですね。とにかく安全な場所に行くということですね、反撃できないから。悔しさは通り過ぎてますよ」
約1年間、死と隣り合わせの日々。ついにその日がやってきます。
「1945年8月15日終戦」松尾さんはラジオで知りました。
【松尾敏武さん】
「これからどうなるかなあということですね。勝っておれば心配ないけども、負けたんだから。これからどうなるかなあと」
結局、日本へ帰れたのは終戦から約2年後のこと。
戦後77年経ったいま、この2年間何をしていたのかは、もう思い出せません。
ただ、松尾さんは60代の時、自身の経験を70ページからなる1冊の本にまとめています。そこにはマレー半島でオーストラリア兵の遺骨収集をしていたとの記述がありました。
【松尾敏武さん】
「オーストラリア兵隊の遺骨収集したかなあ…もう忘れよるなあ…それに書いてあるでしょ。マレー半島にいて、いつ帰れるかいつ帰れるかということだけ考えていたかな」
ようやく日本の土を踏んだのは1947年昭和22年10月。
船は佐世保市の浦頭埠頭に入り、当時あった引揚者の収容所で戦友との集合写真を撮りました。これが、終戦後2年間の唯一の写真です。
佐世保からみんなで列車に乗り、一番先に武雄市の三間坂駅に降り立った松尾さん。
その時の様子をこう表現しています。
「ここでみんなとお別れ、あっけない幕切れである」
【松尾敏武さん】
「1時間もかからずにここで降りたからですね。あぁ、武内に帰ってきたなという感じがしましたね」
その後、武雄市の住吉小学校現在の山内西小学校に赴任した松尾さん。
体育主任として定年まで教壇に立ちました。
【松尾敏武さん】
「結局、どんな苦しいことでも耐えていくという気持ちが残ったですね。こういうことを話をしながらね、平和であるということの重大さをみんなに分かってもらいたい」
戦争の記憶を次の世代に語り継ぐため、体験者の話をシリーズで放送します。
8月で100歳を迎えた武雄市の男性。歳を重ねるごとに記憶も薄れるなか、南方へ出征した経験を1冊の本が伝えています。
「この戦いは人生の貴重な体験であったが、生きて帰ったからこそこんなことが言える」
「四年間の中には死線を越えてきたことも何度かあった」
【松尾敏武さん】
「無事に帰れたというのが不思議なくらいですね。せっかく戦争に行ったんだから、何か残さないかんなあという気持ちがあったから」
武雄市武内町で暮らす松尾敏武さんです。8月、ちょうど100歳になりました。
【松尾敏武さん】
「卒業前でしたけど、どうせ男は戦争に関係せな生きる道はないと自分で自覚してですね」
いまから79年前の1943年昭和18年9月、当時、小学校の教員を養成する佐賀県師範学校の学生だった松尾さんのもとに海軍への召集命令が届きます。
太平洋戦争の終盤、戦局の悪化などによる兵力不足を補うため日本は、それまで兵役を猶予してきた在学中の学生にも動員をかけます。いわゆる“学徒出陣”です。
松尾さんにとってはあと1カ月足らずで卒業という時期でした。
【松尾敏武さん】
「行きたくないっていう気持ちはもう、どうせ行かないかんという、もう観念してましたから、そういうことはあんまり考えなかったですね」
松尾さんがまず向かったのは、千葉県にあった館山海軍砲術学校。
ここでの訓練はのちの人生に思わぬ影響がありました。
【松尾敏武さん】
「日本の使う大砲とか機関銃とか、そういうのの使い方を…」
いまはもうほとんど耳が聞こえない松尾さん。高齢のほかにも理由があります。
【松尾敏武さん】
「耳の聞こえが悪いからというので、特別に検査を受けたんですけど、”あんたは大砲屋やったから、もうこれ以上治りませんよ”と言われましてね」
約9カ月間の訓練も終わり、松尾さんはすでに日本軍が劣勢に立たされていた南方へ出征することに。
一方、誰よりも心配していた両親に行き先は伝えませんでした。
【松尾敏武さん】
「あんなへんぴなところに行くと心配するだろうと思って」
これは戦地へ行く途中に寄った台湾での写真、武雄にいる両親に送りました。
【松尾敏武さん】
「私が死んだ場合に困るやろうなと思って、そこで写真を撮りました」
こうして、インドネシア東部にあるケイ島、そしてアンボン島に進出した松尾さん。しかし、当時はもう負け戦が濃厚だったといいます。
【松尾敏武さん】
「物資弾薬も思った通りに送ってくれないし。だから、できるだけ”ここが大事なところだ”というところだけしか弾は撃たないですよね。そのころはそういうふうだから、勝てるという感じは全然なかったですね」
待っていたのは毎日のように空襲を受け続ける日々。
地上から撃っても届かない高度で飛んでくるアメリカ軍になす術はなく、1度の攻撃で20人近くが戦死したこともありました。
【松尾敏武さん】
「アメリカも、どの高さに行けば絶対大丈夫というのが分かっているわけでしょ。急に、低く飛んできて爆弾を上からバババーンと落として、サーっと上に上がっていくわけですね。とにかく安全な場所に行くということですね、反撃できないから。悔しさは通り過ぎてますよ」
約1年間、死と隣り合わせの日々。ついにその日がやってきます。
「1945年8月15日終戦」松尾さんはラジオで知りました。
【松尾敏武さん】
「これからどうなるかなあということですね。勝っておれば心配ないけども、負けたんだから。これからどうなるかなあと」
結局、日本へ帰れたのは終戦から約2年後のこと。
戦後77年経ったいま、この2年間何をしていたのかは、もう思い出せません。
ただ、松尾さんは60代の時、自身の経験を70ページからなる1冊の本にまとめています。そこにはマレー半島でオーストラリア兵の遺骨収集をしていたとの記述がありました。
【松尾敏武さん】
「オーストラリア兵隊の遺骨収集したかなあ…もう忘れよるなあ…それに書いてあるでしょ。マレー半島にいて、いつ帰れるかいつ帰れるかということだけ考えていたかな」
ようやく日本の土を踏んだのは1947年昭和22年10月。
船は佐世保市の浦頭埠頭に入り、当時あった引揚者の収容所で戦友との集合写真を撮りました。これが、終戦後2年間の唯一の写真です。
佐世保からみんなで列車に乗り、一番先に武雄市の三間坂駅に降り立った松尾さん。
その時の様子をこう表現しています。
「ここでみんなとお別れ、あっけない幕切れである」
【松尾敏武さん】
「1時間もかからずにここで降りたからですね。あぁ、武内に帰ってきたなという感じがしましたね」
その後、武雄市の住吉小学校現在の山内西小学校に赴任した松尾さん。
体育主任として定年まで教壇に立ちました。
【松尾敏武さん】
「結局、どんな苦しいことでも耐えていくという気持ちが残ったですね。こういうことを話をしながらね、平和であるということの重大さをみんなに分かってもらいたい」
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