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【戦争の記憶】「戦争というのは人殺しだからね」 沖縄・宮古島の守備隊に所属

2022/08/16 (火) 14:30

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太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。

≪2019年8月16日放送≫
(年齢は放送当時)

太平洋戦争末期、歩兵として沖縄・宮古島の守備にあたった唐津市の96歳の男性。アメリカ軍の上陸はなかったものの終戦後に待ち受けていたのは悲惨な光景でした。

「戦争する、しないは人間の心次第。戦争になったら人間もへったくれもなんにもない。はやく殺した方が勝ち」

唐津市に住む松岡三男さん96歳。1923年(大正12年)、現在の唐津市に生まれた松岡さんは現在の相知中学校を卒業後、1938年(昭和13年)16歳の時、中国東北部にあり事実上日本が支配していた満州の南満州鉄道に入社、憧れの機関士となります。

「一番花形の列車といったら満鉄のアジア号。あれはものすごく立派」

しかし、その3年後の1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発。当初は快進撃を続けた日本も徐々に戦局は悪化の一途をたどり、1944年昭和19年、松岡さんは21歳の時に徴兵され近衛兵歩兵第三連隊に入隊。沖縄・宮古島を守るため南方に向かい3万人の兵隊とともに島の守備につきます。

「死んで守れ、死んでも守れ、というような命令を隊長からいただいていた。絶対弾を撃ったらいかん、という命令が出ていたから撃っていなかった。撃ったらおおごと。攻撃してくるから」

食糧の確保も命がけでした。食糧を運ぶ糧秣船は制空権・制海権を持つアメリカ軍に次々と撃沈されていきます。

「それで自活しろと。食糧はヘビが一番やった。当時は栄養失調が多くて、イモじゃ間に合わないわけ、身体が。ヘビとカエル、でんでんむし。でんでんむしは箱の中入れとくといくらでも育ちよった。骨ごつごつになってしまってね。ひどい人は歩けなくなっていた」

アメリカ軍は宮古島に上陸することはなく九死に一生を得ます。

「あーよかったなと。みんな酒盛りで祝っていた。敵が上陸してこなかったから」

1945年(昭和20年)、22歳の時に宮古島で終戦を迎え、待っていたのは沖縄本土での1年半の収容生活。そこでの仕事は沖縄戦で亡くなった数多くの遺体の埋葬でした。

「住む家はなし。焼け野原。とにかく無残。行ったときは死体がごろごろしていた。場所によっては重なって転がって。そういうものを我々が戦地で後片付けする人として使われる。米兵たちはしない。街は元通りになるだろうかと思った。びっくりした」

戦後74年が過ぎようとしていた今月2日、松岡さんは家族で長崎県諫早市に向かっていました。

「小学校時代の大の仲良し」

1944年(昭和19年)、長崎県諫早市の多良岳上空を飛行していたアメリカ軍のB29に「零戦」で体当たりし墜落死した唐津市の坂本幹彦中尉の慰霊碑です。坂本中尉は小学校時代の同級生で、松岡さんは3年ほど前に戦死の事実をテレビで耳にしたといいます。

「なんとも言えないですね。坂本くんと一緒に勉強して、よか友達だった。人柄はね立派な人だった」

同級生の慰霊碑に手を合わせ松岡さんは、戦争を語り継ぐ誓いを新たにしていました。

「私たちには先がないから、もうあと何年生存できるか分からんから、生きとる間に今の若い人たちに戦争があったことを言い伝えておかないといけない。絶対していいことはない。戦争というのは人殺しだからね」

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