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開業した西九州新幹線 並行在来線「忘れないで」"不同意"貫いた元市長・桑原さんが思う事とは【佐賀県】
2022/09/26 (月) 18:30
先週、華々しく開業した西九州新幹線。その一方で、特急が大幅に減るなど大きく利便性が低下したのが、長崎本線の江北・諫早間です。
沿線の鹿島市に住み長年、存続運動の先頭に立った元市長の桑原允彦さんがいま思うこととは?
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「上下分離方式というああいうやり方で、まあ一応の決着というか、してからもう15年くらい、経つけど本当早かったね~」
「やっぱりなくなると思ったらさびしいね」
元鹿島市長の桑原允彦さんです。2022年で77歳、毎日の散歩では決まって自宅近くの長崎本線沿いを歩きます。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「本当長い戦いだったね。在任期間中のほとんどはこの問題が、のしかかってきてましたからね」
【鹿島市長(当時)・桑原允彦さん】(1992年)
「こういう在来線の経営分離ということは地方の切り捨てにつながる。強い危機感をもっている」
1990年から5期20年にわたり鹿島市をけん引した桑原さん。そのほとんどは新幹線問題との戦いでした。
【古川知事(当時)】(2004年)
「並行在来線のJR九州からの経営分離については佐賀県としては基本的にはやむを得ないと考えます」
並行在来線、西九州新幹線でいう肥前山口改め江北・諫早間のことです。“新幹線ができればJR九州は長崎本線を経営しない”沿線にあり、新幹線のルートからも外れる鹿島市にとってはまちの将来を左右しかねない重大な問題でした。
【鹿島市長(当時)・桑原允彦さん】
「こんな無茶なプロジェクトをスタートさせたらいかんですよ」(2004年・総決起集会)
ただ、新幹線を着工するにはルールがありました。それはJRが経営を切り離す並行在来線の沿線全ての自治体から必ず「同意」を得ること。
この前提のもと、桑原さんは多くの鹿島市民の声を背に、「不同意」を貫いたのです。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「かもめなんかとその当時行き会うと”あ~これもいつかなくなってしまうのか~”という思いでしたけどね。なんとか自分が同意をしないと、そうはならないという仕組みになっているからね、心配するようなことは…自分で頑張らないかんという風に引き締めていましたけどね」
しかし、2007年、事態は大きく動きます。
【古川知事】
「それが今回の3者合意によってこう変わります。この全区間をJR九州が運行します。つまり、経営分離をしないということになります」
いわゆる上下分離方式、佐賀・長崎両県とJRによる3者合意です。“経営分離には当たらず沿線自治体の同意は必要ない”という新たな解釈。
鹿島市などは、反対する根拠を失ったのです。
現状のままの長崎本線存続を訴え続けすでに17年の月日が流れていました。
市長を引退してもう12年。いまは孫の世話が日課です。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「もう、孫とこうして遊んでいるときが一番もう…(笑)」
【サガテレビニュース】
「今月23日、来週の金曜日に開業する西九州新幹線・・・・・・・」
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「まあ正直言って、新幹線そのものの報道、記事も含めては、ちょっとあんまり直視していないというか、横目に見て、やっぱり思いはこっちの在来線の方ですね…」
連日のように流れる新幹線の報道を見るのは複雑な心境です。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「巨額の費用をね、投じて、しかも無理に無理を重ねてここまで来たわけですけど、やっぱりこれを生かしてもらわんとね、それはもうぜひ、沿線の発展につながってほしいと思ってますけどね」
思いもよらぬ形で決着し、着工、そしてついに開業を迎えた西九州新幹線。桑原さんにとっては決して納得のいく結果ではなかったものの、反対を貫いたことで得られたものもあります。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「最後まで同意を私たちがしなかったから、せめて、いまからのこの在来線の経営、これには沿線の市や町は…直接手出しがなく、済むようになりましたのでね、そういう意味では最後まで不同意を貫いたということはよかったなと思っていますね」
「これが、平成19年、うん、ああいうあの、上下分離方式という決着のされ方をした後ね、僕はあの、これを鹿島市内の全戸に、配りましたね。この問題についてのね。いやもう悔しさ、鹿島市民のみなさんがよく、理解をしてね、一緒に戦ってもらいましたので、そのお礼をかねて…」
「もし、私たちが大きな力に対して何の抵抗もできず、唯々諾々とひれ伏してしまうような歴史を残すのか。それとも可能性のある限り、市民と力を合わせて最後まで頑張り抜いたという歴史を残すのかどちらが良いかということであります。私たちが一生懸命取り組んできたことを後輩たち、子、孫、ひ孫たちも必ずや理解してくれ、それをよりどころにして立派な鹿島市をつくってくれることを信じ、私の鹿島市民への、そして県内各地、全国から応援していただいた皆様へのお礼とお詫びの言葉といたします」
「やっぱりこういう地域のことを忘れないでほしいということですよね。新幹線にばっかり光を照射して、そして皆さんの関心が集まるということではなくて、やっぱり影の部分、あるいは置き去りにされた地域のことについてもみなさん思いをはせてほしいしね、こういう地域があるんだということを忘れないでほしいです」
VTRにもありましたように、西九州新幹線の開業後、長崎本線の肥前山口改め江北・諫早間は並行在来線となり、列車はJRが走らせ、線路や駅舎は佐賀・長崎両県が管理するという上下分離方式での運行に変わりました。
ただ、利便性の低下は避けられず、こういった地域をどうサポートしていくかも継続して考えていく必要があります。
沿線の鹿島市に住み長年、存続運動の先頭に立った元市長の桑原允彦さんがいま思うこととは?
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「上下分離方式というああいうやり方で、まあ一応の決着というか、してからもう15年くらい、経つけど本当早かったね~」
「やっぱりなくなると思ったらさびしいね」
元鹿島市長の桑原允彦さんです。2022年で77歳、毎日の散歩では決まって自宅近くの長崎本線沿いを歩きます。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「本当長い戦いだったね。在任期間中のほとんどはこの問題が、のしかかってきてましたからね」
【鹿島市長(当時)・桑原允彦さん】(1992年)
「こういう在来線の経営分離ということは地方の切り捨てにつながる。強い危機感をもっている」
1990年から5期20年にわたり鹿島市をけん引した桑原さん。そのほとんどは新幹線問題との戦いでした。
【古川知事(当時)】(2004年)
「並行在来線のJR九州からの経営分離については佐賀県としては基本的にはやむを得ないと考えます」
並行在来線、西九州新幹線でいう肥前山口改め江北・諫早間のことです。“新幹線ができればJR九州は長崎本線を経営しない”沿線にあり、新幹線のルートからも外れる鹿島市にとってはまちの将来を左右しかねない重大な問題でした。
【鹿島市長(当時)・桑原允彦さん】
「こんな無茶なプロジェクトをスタートさせたらいかんですよ」(2004年・総決起集会)
ただ、新幹線を着工するにはルールがありました。それはJRが経営を切り離す並行在来線の沿線全ての自治体から必ず「同意」を得ること。
この前提のもと、桑原さんは多くの鹿島市民の声を背に、「不同意」を貫いたのです。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「かもめなんかとその当時行き会うと”あ~これもいつかなくなってしまうのか~”という思いでしたけどね。なんとか自分が同意をしないと、そうはならないという仕組みになっているからね、心配するようなことは…自分で頑張らないかんという風に引き締めていましたけどね」
しかし、2007年、事態は大きく動きます。
【古川知事】
「それが今回の3者合意によってこう変わります。この全区間をJR九州が運行します。つまり、経営分離をしないということになります」
いわゆる上下分離方式、佐賀・長崎両県とJRによる3者合意です。“経営分離には当たらず沿線自治体の同意は必要ない”という新たな解釈。
鹿島市などは、反対する根拠を失ったのです。
現状のままの長崎本線存続を訴え続けすでに17年の月日が流れていました。
市長を引退してもう12年。いまは孫の世話が日課です。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「もう、孫とこうして遊んでいるときが一番もう…(笑)」
【サガテレビニュース】
「今月23日、来週の金曜日に開業する西九州新幹線・・・・・・・」
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「まあ正直言って、新幹線そのものの報道、記事も含めては、ちょっとあんまり直視していないというか、横目に見て、やっぱり思いはこっちの在来線の方ですね…」
連日のように流れる新幹線の報道を見るのは複雑な心境です。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「巨額の費用をね、投じて、しかも無理に無理を重ねてここまで来たわけですけど、やっぱりこれを生かしてもらわんとね、それはもうぜひ、沿線の発展につながってほしいと思ってますけどね」
思いもよらぬ形で決着し、着工、そしてついに開業を迎えた西九州新幹線。桑原さんにとっては決して納得のいく結果ではなかったものの、反対を貫いたことで得られたものもあります。
【元鹿島市長・桑原允彦さん】
「最後まで同意を私たちがしなかったから、せめて、いまからのこの在来線の経営、これには沿線の市や町は…直接手出しがなく、済むようになりましたのでね、そういう意味では最後まで不同意を貫いたということはよかったなと思っていますね」
「これが、平成19年、うん、ああいうあの、上下分離方式という決着のされ方をした後ね、僕はあの、これを鹿島市内の全戸に、配りましたね。この問題についてのね。いやもう悔しさ、鹿島市民のみなさんがよく、理解をしてね、一緒に戦ってもらいましたので、そのお礼をかねて…」
「もし、私たちが大きな力に対して何の抵抗もできず、唯々諾々とひれ伏してしまうような歴史を残すのか。それとも可能性のある限り、市民と力を合わせて最後まで頑張り抜いたという歴史を残すのかどちらが良いかということであります。私たちが一生懸命取り組んできたことを後輩たち、子、孫、ひ孫たちも必ずや理解してくれ、それをよりどころにして立派な鹿島市をつくってくれることを信じ、私の鹿島市民への、そして県内各地、全国から応援していただいた皆様へのお礼とお詫びの言葉といたします」
「やっぱりこういう地域のことを忘れないでほしいということですよね。新幹線にばっかり光を照射して、そして皆さんの関心が集まるということではなくて、やっぱり影の部分、あるいは置き去りにされた地域のことについてもみなさん思いをはせてほしいしね、こういう地域があるんだということを忘れないでほしいです」
VTRにもありましたように、西九州新幹線の開業後、長崎本線の肥前山口改め江北・諫早間は並行在来線となり、列車はJRが走らせ、線路や駅舎は佐賀・長崎両県が管理するという上下分離方式での運行に変わりました。
ただ、利便性の低下は避けられず、こういった地域をどうサポートしていくかも継続して考えていく必要があります。
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